「お子さんは特別支援学級へ入学する可能性があります」
その日、「市の教育指導員」と名乗る人にそう言われた。
「お子さんのことでちょっとお話ししたいことがある」と保育園から連絡があり、個別面談に応じた時のことである。
最初に言われたときの印象は、少しびっくりした。
もうすぐ小学校に入学する息子は、特に身体的に不自由があるわけでもないし、精神的に不安定でもない。
さて、その理由は?
というか、基準は?
びっくりの次には、すぐにこのような疑問が浮かんできた。
どうやら現在では、私(現在32歳)が子供の頃とは、特別支援学級に在籍する基準が変わってきているらしい。
どのような基準になっているのか、学校の先生に聞いたり、調べたりしたことをまとめてみたので、気になっている方の解決になれば幸いです。
スポンサーリンク
文科省の資料から見る特別支援学級の基準
文部科学省のHPには、特別支援学級に在籍する基準となる項目が書かれている。
抜粋してみると、次の通り。(※文部科学省 「特別支援教育について」より)
①視覚障害
視力や視野などの視機能が十分でないために、全く見えなかったり、見えにくかったりする状態
②聴覚障害
身の回りの音や話し言葉が聞こえにくかったり、ほとんど聞こえなかったりする状態
③知的障害
記憶、推理、判断などの知的機能の発達に有意な遅れがみられ、社会生活などへの適応が難しい状態
④肢体不自由
身体の動きに関する器官が、病気やけがで損なわれ、歩行や筆記などの日常生活動作が困難な状態
⑤病弱・身体虚弱
慢性疾患等のため継続して医療や生活規制を必要とする状態、病気にかかりやすいため継続して生活規制を必要とする状態
⑥言語障害
発音が不明瞭であったり、話し言葉のリズムがスムーズでなかったりするため、話し言葉によるコミュニケーションが円滑に進まない状況であること、また、そのため本人が引け目を感じるなど社会生活上不都合な状態であること
⑦自閉症・情緒障害
情緒の現れ方が偏っていたり、その現れ方が激しかったりする状態を、自分の意志ではコントロールできないことが継続し、学校生活や社会生活に支障となる状態
⑧LD、ADHD
LD(学習障害)とは、知的発達の遅れは見られないが、特定の能力に著しい困難を示すものです。また、ADHD(注意欠陥多動性障害)とは、発達段階に不釣り合いな注意力や衝動性、多動性を特徴とする行動の障害です。
市の教育指導員の方や、学校の先生と会話を進めていく中で、現在は、上の項目の中で特に⑧が理由になり、特別支援学級に在籍するお子さんが増えていることが分かった。
文部科学省の資料でも、わざわざ詳細のページを作るほどなので、確かに増えている(というか、昔はスルーされていたことが今では理由の一つになった)のだろう。
ちなみに、
LD(学習障害)とは、
基本的には全般的な知的発達に遅れはないが、聞く、話す、読む、書く、計算する又は推論する能力のうち、特定のものの習得と使用に著しい困難を示す様々な状態
多動性障害(ADHD)とは、
年齢あるいは発達に不釣り合いな注意力、及び/又は衝動性、多動性を特徴とする行動の障害で、社会的な活動や学業の機能に支障をきたすもの
と定義されている。
私の息子は、特に病院などで診断を受けたわけではない。
しかし、とにかくむちゃくちゃマイペースで、集団行動という概念があってないような感じなので、おそらく多動性障害(ADHD)の”社会的な活動や学業の機能に支障をきたす”の部分に当てはまったのだろう。
「そういうお子さんも最近は多いんです」
教育指導員の方や学校の先生は、やけにこの言葉を主張した。
それが何か気になった。
スポンサーリンク
特別支援学級は果たして「劣っている」のか?
ナイーブな話題だが切り込んでみたいと思う。
教育指導員の方は言っていた。
「昔は特別支援学級というと、何か身体に障害のあるお子さんが、その障害に合わせて学習をするという学級でしたが、今はちょっと違うんです。
今は、学校生活がストレスなく楽しく過ごせるように、子供たちの”心の落ち着き場”としての役割も持っているんです」
この言葉には賛成だと思った。
それと同時に、特別支援学級が(健常者に比べて)どこか不自由な子供が行く場所だと、勝手に思い込んでいた自分が恥ずかしくなった。
そもそも、劣っているかどうかの判断というのは、他人が決めることではない。
特に目立った身体的特徴でなくとも、各々が「自分は劣っている」と思うところがあれば、それは劣っているということになるし、「自分の特徴のうちの一つだ」ととらえれば、時にそれは大きな強みにもなる。(乙武洋匡さんなどが良い例)
優劣は自分が決めるのだ。
特別支援学級というのは、何かが劣っている子供が押し込まれる箱ではない。
義務教育として半ば強制的に行くことになった場所で、数年間を楽しく健やかに過ごすための「場の一つ」だと感じる。
私の息子はその後、何度か学校の先生との面談を受けた結果、
「通常学級と特別支援学級を、本人の状態に合わせて行き来する」
ということになった。
マイペースが命!の息子が、集団行動に違和感を覚えてストレスを抱えそうになった時には、特別支援学級に移動して自分のペースで学習するというものだ。
いいじゃないか、それで。
ごく自然。
角ばった箱で囲まれ、仕切られた教室は、なんとなく「このテリトリーから出られない」雰囲気を醸し出す。
でも、違う。
学んで過ごす「場」は一つじゃない。それに、「場」と「場」を行き来するということもできる。
生きていくために必要な読み書きそろばんを、いかに「子供本人が」充実して学べるか?の場所の一つが、特別支援学級なのである。
親の力の見せどころ
世の中には様々な価値観を持つ人がいる。
ここまで書いてきた私の自論に「うんうん」と頷いてくれる人もいれば、「きれいごとばっかり並べて、実際はそんなに甘くない」と反論する人もいるだろう。
これは、そっくりそのまま子供の学校生活にも現れるはずである。
特別支援学級に本人が良しとして在籍していても、周りには「あいつは出来ないやつだからあそこにいるんだ」と思う人もいるだろう。
中には、行動や言葉で「お前は劣っている」と表現してくる者もいるかもしれない。
もしそうなったときには、子を守る親として「選択肢」を持っておきたい。
学ぶ場所を変えるという選択。
学び方を変えるという選択。
生きていくために必要な読み書きそろばんは、一つの場所でなければ習得できないというわけではない。
角ばった箱で囲まれ「このテリトリーから出られない」雰囲気を醸し出す教室。そしてその集合体である学校からは、その気になれば出られるのだ。
新たな学びの場に通うのも一つだし、今はインターネットが発達しているから、オンラインで学べることも山ほどある。
教育指導員の方や学校の先生がやけに主張した、
「そういうお子さん(本人のストレス回避のために特別支援学級に通う子供)も最近は多いんです」
という言葉からは、おそらく特別支援学級に対して、まだ旧来のイメージを持っている人が多いと推測される。
そのような価値観に傷つけられそうになった時には、
親が子に選択肢を提示してあげられるかどうか?
が子供を守るための重要な部分になるだろう。
まとめ
特別支援学級に在籍するかどうかの基準は、昔に比べて今は様々なものが加わった。
文科省の資料などを読んでいると、事細かにいろいろなことが書いてある。
しかしそのような基準は、あくまでも「集団行動の場」である学校に合わせたものである。
もっと本質的なところは、生きていくために必要な読み書きそろばんを、いかに「子供本人が」充実して学べるか?であり、
それと集団行動の場を結びつけた結果、特別支援学級というものがあるのだと思う。
四角い箱(教室)で仕切られる、能力テストなどの数字で判断されるなどの、表面的なことに惑わされないようにしていきたい。
家も同じ様に言われ、何度か学校に行った。自分なりに情報収集したが、何だか先生は杓子定規に決めてるようで納得がいかなかった。
beerchoiceさん
コメントありがとうございます。
集団の管理の問題点は、
わざわざなんでも線引きすることですよね。
そして、その線引きが優劣感に変化してやけに意識されること。
親が意識しすぎると必ず子供にも伝わりますから、
ふーん、そうなんだね。くらいに思っておいた方がいいのかもしれません。
とても共感しました。
わたしも小学校特別支援学級の担任をして7年目になりますが、仰るとおり、昔とは概念が変わってきているように感じます。
昨今「特別支援学級に入れるくらいなら、学校へ行かなくてもいい」と、頑なになる保護者の方もいます。
友だちと楽しく過ごすこと、学んできた学習が少しでも分かるようになること、褒めてもらえることなど、学校での「楽しい」を通じて、もっとお子さんたち一人一人の居場所作りができればいいなと思っています。
そんな考え方が、もっと広まることを願っています。
teacher03さん
コメントありがとうございます!まさか現役の先生からコメントを頂けるとは思ってもみませんでした!
学校という場が「子供が純粋に楽しめる環境」になるように、考え方の幅を広げる大人が増えることを私も切に願います。